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令和5年10月法話 「陰のご苦労」

「陰のご苦労」

 

安芸教区佐伯東組光乘寺 中村啓誠

 

 

 10月に入りました。仏さまにお供えするのによく使う、菊の花が見ごろですね。

 浄土真宗本願寺派の本山・本願寺では、毎年10月の下旬から11月の下旬頃まで、境内地で「本願寺献菊展」が開催されます。〈京都菊栄会〉の皆さんが、毎年本願寺に、丹精込めて育てた見事な菊を、献花してくださるのです。

 

幾たびか お手間かかりし 菊の花

 

 昔の人が読んだ俳句。菊は、育てるのに大変な手間がかかる花なのですね。春から「挿し芽」をして苗を育て、ある程度大きくなったら、鉢や地面に植え替えます。植える土にも、堆肥や油かすなどをまぜ、虫食いの予防、日照時間の調整などに細心の注意を払い、根気強く育て続けた結果、ようやく大輪の花を咲かせます。ですから昔の人は、見事に咲いた菊の花を見て、ただ「きれいですね」と言うだけではなく、「ご苦労様でございました」と、ここまで育てあげた人の、目には見えない苦労(おかげさま)にまで思いをはせたのですね。

 実はこの句は、浄土真宗の信者さんが詠んだもの。「菊」に「聞く」(=わたしたちがお念仏の教えを聞いていること)の意味をかけているのです。「聞く」とは、簡単なようでいて、じつは難しいこと。わたしは高校生の頃、進路のことで父親からよく、アドバイスされました。「ああしろ、こうしろ」と言う父親の言葉は、今思えば、子の幸せを願う親心から出たものなのですが、当時のわたしは素直に聞けなかった。「はいはい、わかりました」(うるさいなあ…)という態度で聞いていると流石に父親は怒り、「なんやその態度は! おまえ、お父さんの言うことをちゃんと聞いとったんか?」というので、「聞いとったわい!」とやり返す。「じゃあ今、お父さんが何と言ったか、言うてみい!」と父親が詰問するのに対して、当時のわたしは何と答えたか。「『じゃあ今、お父さんが何と言ったか、言うてみい』と言うた!」────こんなの、「聞いている」姿とは言わないですよね(笑)

 「聞く」とは、「素直に相手にしたがう」ことで、「自分のことを思ってくれている相手の心を、素直に受け取る」こと。人間の言葉でも、素直に受け取るのは、難しい。まして仏さまの願いの言葉である、「南無阿弥陀仏」(あなたを必ず浄土に生まれさせ、仏にしてみせますよ、という、阿弥陀さまのおおせ)を素直に「聞く」ことは、とっても難しいことです。それを思うと、「仏さまの話を聞いてみよう」「なんまんだぶつって、称えてみよう」「お仏壇に手を合わせてみよう」という心がちょっとでもわたしたちに起こっているとしたら……そこにこそ仏さまは、はたらいておられます。

〈なかなか仏法を聞こうとしないこのわたしを、何とか救いたいと願い、根気強く育て続けてくださった、阿弥陀さまや、たくさんの方々の、目には見えないご苦労がありました。その結果が、とうとう『聞く』の花(仏法を聞く姿)となって、わたしの上に結実しているのです〉という感動が、冒頭の俳句には込められているのです。

 

菊づくり 菊見るときは 陰の人

 

 作家・吉川英治氏の句です。歴史小説「新・平家物語」を週刊誌に連載した時のこと。大阪のひらかたパークで開催されていた菊人形展を吉川氏が見学した折、平清盛の見事な菊人形が出品されていました。観賞するお客さんたちが「きれい!」とほめている時、一人の男性が、少し離れた場所からその菊人形を眺め続けているのです。吉川氏が「あの人は誰?」と周りの人にたずねたところ、まさにその、菊人形を作った菊職人さんでした。その職人さんを詠んだのが、この句。出来上がったものの見事さにみんなが目を奪われている時、じつはその「陰」に、作り手の人知れぬ苦労がありました。吉川さんも作家として、小説の登場人物にいのちを吹き込む創作の苦労を味わったからこそ、菊職人さんの「陰の苦労」に共感できたのでしょう。

 仏さまに手を合わせること。仏法を聞くこと。お念仏をとなえること。それは当たり前のことではなかったのです。その「陰」に、仏さまのご苦労がありました。「聞く」わたしが偉いのではない。仏法を聞こうとしないはずのわたしを、聞く身にまで育てあげてくださった仏さまのご苦労を、「お陰さま」と慶ばせていただくのです。

 

 

 


中村啓誠

1969年8月24日生。
安芸教区佐伯東組光乘寺衆徒。
本願寺派布教使。
布教研究専従職員を経て、現在布教使課程専任講師。
広島県呉市在住。

 


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