お知らせ

令和6年4月法話「大袈裟」

大 袈 裟

安芸教区佐伯東組光乘寺 中村啓誠

 

 今年度より12回のシリーズで、「生活の中の仏教用語」をテーマに、みなさんとご一緒に、阿弥陀さまという仏さまのお心を味わってまいりたいと思います。

 第1回は、「大袈裟」(おおげさ)。「そんなオーバーな」という意味で、「そんな大げさな」と言ったりしますね。「袈裟」(けさ)とはもちろん、お坊さんが身に着けている法服のこと。お釈迦さまの頃は「糞掃衣」(ふんぞうえ)と言って、捨てられた布の切れ端を縫い合わせた、粗末なものでしたが、仏教がインドから中国、日本に伝わり、皇帝や貴族を外護者として栄えるにつれ、身に着ける袈裟も次第に、金襴(きんらん)を使ったりして、華美なものになっていきました。儀礼の際に、大きな袈裟を身に着けたお坊さんの様子が、いかにも〈儀式ばっている〉〈大仰(おおぎょう)である〉というので、やがて「オーバーなこと」を「大袈裟」と表現するようになったのです。なんだか、〈中身は全然立派じゃないくせに、立派な袈裟を着けて、自分を大きく見せようとしている!〉と、堕落したお坊さんを批判する言葉のようにも聞こえて、耳が痛いです…。

 お盆参りのさいちゅう、水分補給のためコンビニに寄って、飲み物を買うことがあります。お袈裟を着けているので、変に〈お坊さんのイメージ〉を気にしてしまい、ほんとうはカフェオレを飲みたいのに、お茶を買ってしまいます(誰に忖度してるんだろう…)。でもお袈裟のおかげで、〈レジ待ちで割り込みされても、ニコニコしていられる〉という、良い面もあります。〈いま自分はお袈裟を着けている。イライラしちゃだめ!〉と、自分の心にブレーキがかかるのです。逆に言えば、お袈裟を着けていないときのわたしが、いかに怒りっぽい人間か… それは、わたしの妻が一番よく知っています。わたしの法話をyoutubeで見た妻はきっと、「中身は全然立派じゃないくせに、立派な袈裟を着けて、自分を大きく見せようとしている!」と感じているはず。お袈裟を着けていないときでも、「この人はお坊さんらしいお坊さんだ」と(家族からも)思われるような、心やさしいお坊さんになりたいなあ、とつくづく思います。

 浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、〈袈裟を着けることで自分を大きく見せようとする人〉ではありませんでした。「外面だけ賢そうな振る舞いをするのはやめよう。わたしの内面にはいつだって、うそいつわりしかないのだから」と、自分が凡夫であることを決してごまかさなかったお方です。聖人にとってお袈裟とは、それを身に着けることでかえって、「仏弟子らしからぬ、自分の愚かさ。小ささ」に気づかせていただくような法服だったことでしょう。

 必死で自分を大きく見せようとするところに、わたしたちの愚かさ、小ささがあります。

 でもそんなわたしたちの心の内側まで全部知り抜いた上で、それでもなお、誰ひとり見捨てることなく、「あなたは必ず仏になる、尊い仏の子だよ」と、ひとりひとりに呼びかけてくださっているのが、聖人が大切にされた、阿弥陀さまという仏さまなのです。ですからわれわれお坊さんは、お袈裟を着脱するとき、仏さまの広大なおはたらきを思いながら、うやうやしく額に押し頂いてお礼をします。「阿弥陀さま。わたしの人生に『仏の子』という、尊い意味を与えてくださって、ありがとうございます! みんなが救われていくこの道を、精一杯お伝えさせていただきます!」と。

 「大きい」のは、お袈裟を着ける人間ではなくて、すべてのいのちを底なしに包む、仏さまのお心です。「大袈裟」という言葉は、むしろそのことをわたしに教えてくれました。

 


中村啓誠

1969年8月24日生。
安芸教区佐伯東組光乘寺衆徒。
本願寺派布教使。
布教研究専従職員を経て、現在布教使課程専任講師。
広島県呉市在住。

 


令和6年3月法話「出遇いと別れ、そして本当の出遇い」

「出遇いと別れ、そして本当の出遇い」

 

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 

 3月を迎え、少しずつ春の訪れを感じる季節になりました。春は新たないのちの息吹に出遇っていく季節であり、年度末による生活の変化に伴う別れの季節でもあります。出遇いや別れの中に、心がさまざまに揺れ動く季節です。

 私たちはたくさんの出遇いと別れを繰り返して生きています。さまざまな人や物、出来事などと出遇い、そしてその全てと別れる、もしくはいずれ別れねばならないいのちを生きています。それは「無常(むじょう)」だからです。あらゆるものが常に変化し続けているのです。それに対して私たちは「執着(しゅうじゃく)」の心を起こし、とらわれて手放すことができない思いから、ずっと変わらない、変わりたくないという思いを起こします。この「無常」と「執着」のギャップが私たちの苦悩となります。思い通りにならない、どうすることもできないという心が湧いてくるのです。お互いに必ずいのちを終えていかねばならない中に、大切な方と別れたくなくとも別れねばならない苦悩が湧いてくるのです。この苦悩を「愛別離苦(あいべつりく)」といいます。

 本願寺第8代宗主の蓮如上人のお手紙に電光朝露(でんこうちょうろ)章というものがあり、その中に「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」とあります。いのち終えていく時には、当てにしていた家族も財産も一緒になんてことあり得ませんというのです。そして後に続くお手紙の内容は「ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり」とあり、一人いのち終えていく私には阿弥陀如来しか頼りになるものはありません、どうぞ阿弥陀如来におまかせし浄土にまいらせていただきましょうとあります。阿弥陀如来はすべてのいのちを救うと立ちあがられ、すべてのいのちを阿弥陀如来の世界である浄土に生まれさせ、おさとりの身である仏に仕上げて救いぬくと活動する存在です。阿弥陀如来は一人いのち終えていく私に「阿弥陀がいるぞ、阿弥陀にまかせてくれよ」と絶えず呼びかけ続ける存在であり、生まれゆく浄土は、すべてのいのちが生まれゆく、すなわち再び会うことのできる世界です。そこに別れのない世界、別れを超えていく世界が恵まれてきます。

 先日、私の近所のご住職がご往生されました。そのお葬儀にてご子息が父のエピソードとして、「人生に過不足なし」ということばを大切にされていたとお話しくださいました。お寺に生まれ、住職となってたくさんの人と出遇わせていただいた。その分たくさんの人とお別れしなければならなかった。そのお別れは本当につらいことだった。我が子のように私を可愛がり、私の成長を見守り、私の活躍を喜んでくださった。そのようなたくさんの方々とお別れするのは、本当につらく悲しい出来事だった。しかし、そのお別れの中で本当の出遇いをたまわることができた。いずれいのちを終えていく私が生まれゆく阿弥陀如来の世界である浄土は、仏となって再び会える世界である。執着を離れ、苦を離れ、再び会える世界である。無常ではない、常に会うことのできる世界である。人と別れてゆかなければならないこの世界は、しかしその別れの悲しみを通じて、阿弥陀如来と出遇わせていただく世界であった。この出遇いこそ本当の出遇いであり、その中に「人生に過不足なし」とすべてのご縁を受け止めていかれた父でしたというご挨拶を聞かせてくださいました。

 私たちは生きている間にたくさんの出遇いと別れを繰り返していきます。その中には大切な方との出遇いと別れも存在します。その別れを苦悩のままに終わらせないお方がいらっしゃいます。阿弥陀如来です。すべてのいのちを浄土に生まれさせ、仏に仕上げてくださいます。私たちは、その浄土を再び会うことのできる世界と伺います。仏となり別れのないものとして再び会うのです。いのちを終える中に必ず別れていかねばならない私たちにとって、私たちが出遇うべき本当の出遇いについて、出遇いと別れの季節に伺わせていただきました。

 

 


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在勤式指導所講師。

 

 


令和6年2月法話「如月忌 ~先人の足跡をたどって~」

如月忌 ~先人の足跡をたどって~

 

大阪教区茅渟組正法寺     豊田悠

 

 

 一段と冷え込む季節となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、本願寺では、毎年2月7日に仏教婦人会を中心に九條武子(くじょうたけこ)さまのご命日を偲んで「如月忌(きさらぎき)」をお勤めしています。2月を旧暦で如月(きさらぎ)と呼ぶ事に由来します。

 九條武子さまは、1887(明治20)年、本願寺第21代宗主・明如上人の次女として誕生されました。幼い頃から仏さまのお育てのもと歩まれた武子さまは「一人でも多くの方に阿弥陀さまという仏さまと歩む人生のすばらしさをお伝えしたい!」と、18歳で大谷籌子(おおたにかずこ)さまと共に仏教婦人会を設立されました。私生活では、23歳で籌子さまの弟である良到(よしむね)さまと結婚されましたが、結婚したばかりの夫は、海外留学のためと一人ロンドンへ渡り、約10年間帰ってきませんでした。歌人でもあった武子さまは、後に歌集「金鈴(きんれい)」を出版されますが、そこには別居生活を送る夫に対しての寂しさを込めた歌が、たくさん出てきます。

 さらに追い打ちをかけるように結婚2年後、義姉である籌子さまが急逝されます。「夫は海外に行きっぱなしで帰ってこない」「お姉さまも亡くなってしまった。私はこれから一体どうすればいいのか…」そんな不安が胸いっぱいに広がったことでしょう。しかし、悲しみの中にありながらも、籌子さまのお心を引き継がれた武子さまは、実質的な仏教婦人会の運営責任者となり、本部長として日本全国への巡回を始められました。

 そんな中、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が勃発しました。昼時で火を使用している家庭も多かったためか、この地震では大規模な火災が発生しました。当時、築地本願寺の境内にお住まいになられていた武子さまも被災され、迫りくる炎の中、何とか一命を取り留められました。その後武子様は、被災者の救護事業や孤児の救済、厚生施設設立など、様々な慈善活動に力を注いでいかれました。しかしながら、長期にわたる奉仕活動の過労が重なり、肺血症を患って「南無阿弥陀仏…」を称えつつ、42歳でその生涯を終えられました。

 この原稿を書くまで、私は武子さまを、どんな時もくじけない気高く強い方だと思っていました。しかしながら、不遇な私生活、義姉の急逝、被災、慈善活動、巡回だらけの年表と、その生涯を知れば知るほど「ああ、この方は強かったわけではなくて、たまらなくさびしかったのかもしれない。不安だったのかもしれない。でもだからこそ、そんな自分の居場所になってくださる阿弥陀さまのお慈悲に遇えたことが嬉しかった。慈善活動は、そのお慈悲に遇えた慶びから行われたのではないだろうか」と思うようになりました。武子さまの心の内が秘められた歌碑が、築地本願寺に残されています。

 

  「おほいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」

 

 はかりしれない阿弥陀さまのお心に導かれて歩む、私のあしあとの何とおぼつかないことでしょうかと、ご自身の弱さ、はかなさを歌われています。

 武子さまの慈善活動は、時には拒否され、受け入れられない事もありました。そんな時、武子さまは「不請(ふしょう)の友たれ」とおっしゃったそうです。『仏説無量寿経』の中に「もろもろの庶類(しょるい)のために不請の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす」(註釈版聖典7ページ)といった御文があります。あらゆる人々のためにすすんで友となり、その苦しみを背負い引き受け、導いていく阿弥陀さまのお姿です。阿弥陀さまは、すべてのものを最愛の友として、私の悲しみを自分事と捉えてくださっている慈悲の仏さまです。「あなたのつらさ、あなたの悲しさ、ともに背負わせてくれませんか。」と南無阿弥陀仏のお念仏となられて、どんな時も私達ひとりひとりの居場所となってくださっています。「阿弥陀さまが不請の友となり自分の居場所となってくださったように、今度は私が誰かの居場所になっていきたい…」そんな思いで活動されていたのでしょう。武子さまの心を受けて、頑なだった人々の心は次第にほぐれ、最後には大声をあげて泣いたそうです。

 仏さまとともに歩む人生の中に居場所を見出され、そのお慈悲を慶ばれ、またそのお慈悲を自分だけでとどめずに、多くの方と分かち合いたいと活動されたのが、武子さまというお方でありました。仏さまのお慈悲を慶ばれた武子さまのお姿に習い、私も仏さまのお慈悲のお育てのもと、精一杯精進してまいりたいと、気持ちを新たにいたしました。

 合掌

 


豊田 悠

1986年3月30日生まれ。

大阪教区茅渟組正法寺 豊田悠

本願寺派布教使

お西さんを知ろう案内僧侶

現在伝道院指導員

 

 

 

 

 


トップへ戻る