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令和6年3月法話「出遇いと別れ、そして本当の出遇い」

「出遇いと別れ、そして本当の出遇い」

 

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 

 3月を迎え、少しずつ春の訪れを感じる季節になりました。春は新たないのちの息吹に出遇っていく季節であり、年度末による生活の変化に伴う別れの季節でもあります。出遇いや別れの中に、心がさまざまに揺れ動く季節です。

 私たちはたくさんの出遇いと別れを繰り返して生きています。さまざまな人や物、出来事などと出遇い、そしてその全てと別れる、もしくはいずれ別れねばならないいのちを生きています。それは「無常(むじょう)」だからです。あらゆるものが常に変化し続けているのです。それに対して私たちは「執着(しゅうじゃく)」の心を起こし、とらわれて手放すことができない思いから、ずっと変わらない、変わりたくないという思いを起こします。この「無常」と「執着」のギャップが私たちの苦悩となります。思い通りにならない、どうすることもできないという心が湧いてくるのです。お互いに必ずいのちを終えていかねばならない中に、大切な方と別れたくなくとも別れねばならない苦悩が湧いてくるのです。この苦悩を「愛別離苦(あいべつりく)」といいます。

 本願寺第8代宗主の蓮如上人のお手紙に電光朝露(でんこうちょうろ)章というものがあり、その中に「まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず」とあります。いのち終えていく時には、当てにしていた家族も財産も一緒になんてことあり得ませんというのです。そして後に続くお手紙の内容は「ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり、信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり」とあり、一人いのち終えていく私には阿弥陀如来しか頼りになるものはありません、どうぞ阿弥陀如来におまかせし浄土にまいらせていただきましょうとあります。阿弥陀如来はすべてのいのちを救うと立ちあがられ、すべてのいのちを阿弥陀如来の世界である浄土に生まれさせ、おさとりの身である仏に仕上げて救いぬくと活動する存在です。阿弥陀如来は一人いのち終えていく私に「阿弥陀がいるぞ、阿弥陀にまかせてくれよ」と絶えず呼びかけ続ける存在であり、生まれゆく浄土は、すべてのいのちが生まれゆく、すなわち再び会うことのできる世界です。そこに別れのない世界、別れを超えていく世界が恵まれてきます。

 先日、私の近所のご住職がご往生されました。そのお葬儀にてご子息が父のエピソードとして、「人生に過不足なし」ということばを大切にされていたとお話しくださいました。お寺に生まれ、住職となってたくさんの人と出遇わせていただいた。その分たくさんの人とお別れしなければならなかった。そのお別れは本当につらいことだった。我が子のように私を可愛がり、私の成長を見守り、私の活躍を喜んでくださった。そのようなたくさんの方々とお別れするのは、本当につらく悲しい出来事だった。しかし、そのお別れの中で本当の出遇いをたまわることができた。いずれいのちを終えていく私が生まれゆく阿弥陀如来の世界である浄土は、仏となって再び会える世界である。執着を離れ、苦を離れ、再び会える世界である。無常ではない、常に会うことのできる世界である。人と別れてゆかなければならないこの世界は、しかしその別れの悲しみを通じて、阿弥陀如来と出遇わせていただく世界であった。この出遇いこそ本当の出遇いであり、その中に「人生に過不足なし」とすべてのご縁を受け止めていかれた父でしたというご挨拶を聞かせてくださいました。

 私たちは生きている間にたくさんの出遇いと別れを繰り返していきます。その中には大切な方との出遇いと別れも存在します。その別れを苦悩のままに終わらせないお方がいらっしゃいます。阿弥陀如来です。すべてのいのちを浄土に生まれさせ、仏に仕上げてくださいます。私たちは、その浄土を再び会うことのできる世界と伺います。仏となり別れのないものとして再び会うのです。いのちを終える中に必ず別れていかねばならない私たちにとって、私たちが出遇うべき本当の出遇いについて、出遇いと別れの季節に伺わせていただきました。

 

 


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在勤式指導所講師。

 

 


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