お知らせ
大 袈 裟
安芸教区佐伯東組光乘寺 中村啓誠
今年度より12回のシリーズで、「生活の中の仏教用語」をテーマに、みなさんとご一緒に、阿弥陀さまという仏さまのお心を味わってまいりたいと思います。
第1回は、「大袈裟」(おおげさ)。「そんなオーバーな」という意味で、「そんな大げさな」と言ったりしますね。「袈裟」(けさ)とはもちろん、お坊さんが身に着けている法服のこと。お釈迦さまの頃は「糞掃衣」(ふんぞうえ)と言って、捨てられた布の切れ端を縫い合わせた、粗末なものでしたが、仏教がインドから中国、日本に伝わり、皇帝や貴族を外護者として栄えるにつれ、身に着ける袈裟も次第に、金襴(きんらん)を使ったりして、華美なものになっていきました。儀礼の際に、大きな袈裟を身に着けたお坊さんの様子が、いかにも〈儀式ばっている〉〈大仰(おおぎょう)である〉というので、やがて「オーバーなこと」を「大袈裟」と表現するようになったのです。なんだか、〈中身は全然立派じゃないくせに、立派な袈裟を着けて、自分を大きく見せようとしている!〉と、堕落したお坊さんを批判する言葉のようにも聞こえて、耳が痛いです…。
お盆参りのさいちゅう、水分補給のためコンビニに寄って、飲み物を買うことがあります。お袈裟を着けているので、変に〈お坊さんのイメージ〉を気にしてしまい、ほんとうはカフェオレを飲みたいのに、お茶を買ってしまいます(誰に忖度してるんだろう…)。でもお袈裟のおかげで、〈レジ待ちで割り込みされても、ニコニコしていられる〉という、良い面もあります。〈いま自分はお袈裟を着けている。イライラしちゃだめ!〉と、自分の心にブレーキがかかるのです。逆に言えば、お袈裟を着けていないときのわたしが、いかに怒りっぽい人間か… それは、わたしの妻が一番よく知っています。わたしの法話をyoutubeで見た妻はきっと、「中身は全然立派じゃないくせに、立派な袈裟を着けて、自分を大きく見せようとしている!」と感じているはず。お袈裟を着けていないときでも、「この人はお坊さんらしいお坊さんだ」と(家族からも)思われるような、心やさしいお坊さんになりたいなあ、とつくづく思います。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人は、〈袈裟を着けることで自分を大きく見せようとする人〉ではありませんでした。「外面だけ賢そうな振る舞いをするのはやめよう。わたしの内面にはいつだって、うそいつわりしかないのだから」と、自分が凡夫であることを決してごまかさなかったお方です。聖人にとってお袈裟とは、それを身に着けることでかえって、「仏弟子らしからぬ、自分の愚かさ。小ささ」に気づかせていただくような法服だったことでしょう。
必死で自分を大きく見せようとするところに、わたしたちの愚かさ、小ささがあります。
でもそんなわたしたちの心の内側まで全部知り抜いた上で、それでもなお、誰ひとり見捨てることなく、「あなたは必ず仏になる、尊い仏の子だよ」と、ひとりひとりに呼びかけてくださっているのが、聖人が大切にされた、阿弥陀さまという仏さまなのです。ですからわれわれお坊さんは、お袈裟を着脱するとき、仏さまの広大なおはたらきを思いながら、うやうやしく額に押し頂いてお礼をします。「阿弥陀さま。わたしの人生に『仏の子』という、尊い意味を与えてくださって、ありがとうございます! みんなが救われていくこの道を、精一杯お伝えさせていただきます!」と。
「大きい」のは、お袈裟を着ける人間ではなくて、すべてのいのちを底なしに包む、仏さまのお心です。「大袈裟」という言葉は、むしろそのことをわたしに教えてくれました。
中村啓誠
1969年8月24日生。
安芸教区佐伯東組光乘寺衆徒。
本願寺派布教使。
布教研究専従職員を経て、現在布教使課程専任講師。
広島県呉市在住。