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令和6年7月法話「「分別(ふんべつ)」

「分別(ふんべつ)」

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 近頃は資源の有効利用等の目的でごみの分別が当たり前のことになりました。自治体ごとに分別収集のルールがあるので、年度が変わり新生活を始められた方々はそろそろ慣れてこられた頃でありましょう。

 さてこの分別ということばですが、上記のごみ収集においては「ぶんべつ」と読みます。また、例えば常識の有無などを言う際のあの人は分別があるとかないとかという場合は「ふんべつ」です。この後者の分別(ふんべつ)はもとを辿れば、仏教用語に由来があります。ただし使われ方が真逆になってしまっているのです。

 一般にあの人は分別があると言えば、物事の道理や常識がわかっていて良いというポジティブな意味になります。分別がないと言えば、物事の道理や常識がわかっておらず良くないというネガティブな意味として用いられます。しかし仏教においては分別があるということは、自分の都合で線引きをしていきそこに執着をし、苦しみの元になっていくということを表し、無分別といえば自分の都合や線引きを超えた真理そのものをみていく仏さまの智慧のすがたを表します。

 華厳経という経典に「因陀羅網(いんだらもう)」というたとえがあります。帝釈天(=因陀羅)の宮殿に因陀羅網という立体型の網があって、網の結び目にはきれいな珠がついています。この珠はとてもきれいな珠なので、お互いの像を鏡のように映しあっていて、無数に網の目がありますから、無数の珠がお互いを映しあっています。ということは一つの珠にはめぐりめぐって全ての珠が映っていてつながり合っているので、全てのいのちをひと繋がりのいのちとみていくような無分別のあり方が示されています。

 では、自分の都合で線引きをしていくとはどういうことでしょうか。好き嫌いや贔屓をしていくのもその一つのあり方と言えるでしょう。以前、野球の日本代表の試合を見に行ったことがあります。さまざまなプロ野球球団から選手が選ばれ、各国の代表と試合をします。球場にはそれぞれ応援しているプロ野球球団のユニフォームを着た観客が居ます。いつもは対戦している球団の選手を応援し合う空間が、垣根を超えて線引きを超えて一つの目的に向かうすがたとして嬉しく思いました。さて私の隣には、デート中のカップルがいました。そのお一人はどうも野球にあまり興味がなかったようで選手のすがたばかり見ていて、イケメンの気に入った選手を応援するという状況でした。その選手は対戦相手の国の選手でした。その様子を見たときに、先ほど垣根をこえて線引きを超えていくすがたを嬉しく思うと言いましたが、私はまだ線引きをしているということに気付かされました。国の線引きをしているのです。そして隣のお方もイケメンかどうかで線引きをしているのです。私たちはどこまでも線引きをして自分の都合で執着をして比べてしまったりしながら思い通りにならない苦悩を抱えていく、そのことを改めて感じる出来事でした。

 私たちはどこまでも分別をします。自分や他人と分けていくことも分別に当たります。仏さまは、無分別です。全てのいのちを線引きせずに見てくださいます。

「三界(さんがい)の衆生(しゅじょう)をわがひとり子(ご)とおもふことを得(う)るを一子地(いっしじ)といふなり」

 という親鸞聖人の浄土和讃に出てくることばがあります。(註釈版聖典573ページ脚註)

 全てのいのちをひとり子のように受け止めてくださることを一子地というとお示しくださいました。全てのいのち、すなわちこの私のことを仏さまはひとり子のように見てくださいます。私たちは、分別をし、線引きをして、他と比べ、惨めになったり、私だけどうしてこんなというような思いを抱えたり、思い通りにならないどうしようもない思いを抱えていきます。その原因は分別をし、自分の側に執着をしていくからですが、そのような苦悩を抱えた生き方しかできない私たちに「あなたを必ず救いぬく、私にまかせておくれ」と絶えずはたらき続ける存在が阿弥陀如来という仏さまです。分別を超えたはたらきが私たちの分別を超えさせてくださり苦悩から解き放たれていくというお救いのご一端を「分別」ということばに伺うことでした。

 

 


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在中央仏教学院講師。


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