お知らせ

令和6年11月法話「おかげさま」

今年度は12回のシリーズで、「生活の中の仏教用語」をテーマに、みなさんとご一緒に、阿弥陀さまという仏さまのお心を味わってまいりたいと思います。

 

「おかげさま」

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 最近、某商社のコマーシャルで歌手の宇多田ヒカルさんが「みんなの『おかげさまで』が地球を回す力になればいいのに」ということばをおっしゃっていました。この「おかげさま」ということばは「他者から受けた助力や親切に対しての感謝を表す」という意味があり、おかげは「御蔭」と書き、神仏の恩恵・加護への感謝から生まれてきたことばだそうです。自分が今あるのは他者の「おかげさま」であるという意識でもって行動すれば、もっとお互いに尊重し合える世の中になるかもしれないというコマーシャルのメッセージです。この「おかげさま」ということばを広めたのは近江商人であると作家の司馬遼太郎さんが『街道をゆく』という紀行文集の中でおっしゃっておられました。全国に行商に行かれる中に商売をさせていただくのは阿弥陀如来の「御蔭」であると「おかげさまで」ということばを大切にしながら巡られたそうです。先の某商社は近江商人ゆかりの会社ですので、その思いを大切にされているわけです。

 では、なぜ近江商人が「おかげさま」を阿弥陀如来と結びつけ、大切にしたのでしょうか。そのことを伺うに本願寺第8代宗主蓮如上人の『猟すなどり章』というお手紙の中に、

 

「ただあきないをもし、奉公をもせよ、猟すなどりをもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんと誓いまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず弥陀如来の御たすけにあづかるものなり」

 

とあります。

 日々の生業の中にあって等価交換をせずに儲けを生み出す商いという行為も、自らを由とせず上からの命令にいのちを捧げる奉公という行為も、他者のいのちを奪い我々のいのちの糧としていく猟すなどりという行為も、それらはせざるを得ない人の営みです。その罪業を理解し受け止め必ず助けると誓われた阿弥陀如来の全てのいのちを救う願いをそのままに受け止め、助かることのありがたさを心に留めていくことを述べられたお手紙です。このことを「おかげさま」といただいた近江商人であったということになります。

 仏教では自己中心性により、悪い結果をもたらす行為を十の悪業すなわち「十悪」としています。その中で妄語(もうご/相手をことばでたぶらかす)や綺語(きご/おべんちゃらを言う)が「あきない」にあたり、「殺生」(せっしょう/他者のいのちをうばう)が「奉公」や「猟すなどり」にあたるのでしょう。それらを仏教的に罪業と扱われる中にあって、阿弥陀如来はそこへと至る状況を見抜き、そうせざるを得ない人間の悲哀を受け止め、その者を必ず救うという誓いをたてられたわけです。そこに「おかげさま」といただき、お互いを尊重しつつ、自らのいのちを生き抜いていける支えとして阿弥陀如来の存在を「御蔭」と大切にしていかれたのです。

 また私たちの行為を身口意の三業と言います。体ですること(身業)と口に出すこと(口業)と心に思うこと(意業)それぞれが行為として存在し、これらは意業から身業と口業が生じるので、意業を本質的なものとみていきます。だから先に挙げた「妄語」や「綺語」や「殺生」も心の中で思うだけで意業として成立するのです。例えば「あの人おらんかったら…」と思うことがそのまま「殺生」の意業として成立していくのです。そうなると常々、私たちは少なからず「十悪」を行いながら生きている存在であると言えましょう。その私たちを必ず救うとお誓いくださった阿弥陀如来の存在を「おかげさま」といただきながら、精一杯生き抜かさせていただくのが私たちの受け止めでありましょう。

 お互いさまにそのような存在だと知らされる中に、阿弥陀如来の「おかげさま」のありがたさを知らされていく。そのことが地球を回す力になってくれればと思う「おかげさま」ということばを伺うことでした。

 

 


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在中央仏教学院講師。


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