お知らせ

令和7年2月法話「平等」

今年度は12回のシリーズで、「生活の中の仏教用語」をテーマに、みなさんとご一緒に、阿弥陀さまという仏さまのお心を味わってまいりたいと思います。

 

「平等」

 

大阪教区島中南組専称寺 野田 茜

 

男女平等や機会の平等など、日常の中で「平等」という言葉をよく聞きます。この「平等」という言葉は、もともと仏教語であり、原語はサンスクリット語のsāmānya(サーマーヌヤ)です。「誰に対しても同様で、共通であること」を意味します。

浄土真宗で大切にする阿弥陀仏という仏さまには、「平等覚(びょうどうがく)」という別名があります。阿弥陀さまは、あらゆるいのちを平等にご覧になります。この世にあるすべてのいのちをまるでたった一人のわが子であるかのように、平等に慈しんでおられるのです。

どのいのちも一人子(ひとりご)のように慈しむお心を、恩師であるS先生から教わりました。

小学校1年生の時の私は、とっても内気な子どもでした。どれくらい内気かと言うと、休み時間も誰とも話さず、ただ一人姿勢を正して座っているような子でした。自分からはクラスの子に話しかけられないので、給食を誰よりも早く食べることにしました。すると、私から話しかけなくても、「めっちゃ食べるの早いな」と声をかけてくれるのです。その癖が未だに抜けず、今も早食いです。

勉強もちっともできませんでした。1年生の時の担任の先生はS先生という、とても優しい女性でした。授業中に配られる課題用のプリントの提出が、私はいつも一番遅く、しかもまったくできていません。そんな私を心配したS先生は、私のことをすぐに見られるように一番前の真ん中の席に移してくださいました。テスト中も私だけ黒板の前に呼んで問題の解き方を教えてくださるのです。

S先生は、私が2年生に上がるとき、他の学校に異動されました。

私は内気で勉強のできない自分が嫌で、自分を変えようと頑張りました。

私が6年生の時のことです。S先生が会議で私の学校に来られることを知りました。S先生に変わった私を見てもらおうと、会議の日、S先生に会いに行きました。

「先生、今はたくさん友達もできたし、通信簿も、もう『がんばろう』はありません!」

するとS先生は、昔と同じように優しく「そう」と頷くだけでした。あれ?もっと喜んでくれる、ほめてくれると思ったのに、おかしいな?と思い、

「私のこと忘れましたか?」と聞くと、「よく覚えているわよ。ほっぺたの赤い、とってもかわいい子だったわよ。」とおっしゃったのです。

 私はそのS先生の言葉に目の奥が熱くなってきて、いつの間にか涙が溢れていました。涙を止めようにも止まらなくて、後から後から涙が流れ続けました。

私は、内気な私はだめだ。勉強のできない私はだめだ、と自分自身を否定して違う私になろうと無理をして頑張っていました。ですが、S先生は私の存在そのものを大切で愛しいと思ってくださっていたのです。だから、私が内気であろうと勉強ができなかろうと、先生にとって私はとってもかわいい子だったのです。

 S先生のあたたかいまなざしを思い出すとき、阿弥陀さまのお心が改めてありがたいなと気づかされます。

阿弥陀さまは、どのいのちもまるでたった一人のわが子であるかのように、大切で愛しいとご覧になります。

私たちは、自分で自分自身を「だめだ」と否定することがあります。時には、周りから非難されることもあります。ですが、阿弥陀さまは、私が自分のことを否定している時も、周りから非難されている時も、あなたはかけがえのない大切で愛しい存在であるとご覧になります。その阿弥陀さまのお心に触れるとき、自分の欠点や弱さを責める心が少しずつほどけていくのではないでしょうか。

 阿弥陀さまは、私にも、あなたにも平等の慈しみの心を注いでくださるから、「平等覚」と讃えられる仏さまなのですね。

 

 


野田茜

1980年10月4日生

大阪教区島中南組専称寺副住職・坊守

本願寺派布教使

布教研究専従職員

中央仏教学院講師


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