お知らせ

令和7年7月法話 「清浄歓喜智慧光ーしょうじょうかんぎちえこうー」

「清浄歓喜智慧光」

                                        大阪教区 榎並組 信徳寺 小西善憲

 

 親鸞聖人がお示しくださった正信偈に、お釈迦さまがお説きくださった『仏説無量寿経』を受けて、十二光という阿弥陀如来の光明のお徳を讃えられた部分があります。「普放無量無辺光 無礙無対光炎王 清浄歓喜智慧光 不断難思無称光 超日月光照塵刹 一切群生蒙光照(あまねく無量・無辺光、無礙・無対・光炎王、清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る)」という部分ですが、この度は「清浄歓喜智慧光」のお心を伺ってまいります。

 阿弥陀如来はすべてのいのちをもらさず救う仏さまです。阿弥陀如来の世界である浄土に生まれさせ、おさとりの身と仕上げてお救いくださいます。私たちが自らの力で煩悩を滅することができずにさとりへと至ることができないと見抜いて、ただ阿弥陀如来におまかせしていく道を完成してくださいました。その中で、煩悩を滅するはたらきを「清浄光」「歓喜光」「智慧光」と表してくださいました。煩悩の代表的なものを三毒と言います。それぞれ貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・愚痴(ぐち)と言いますが、「清浄光」が貪欲を除き、「歓喜光」が瞋恚を除き、「智慧光」が愚痴を打ち破るはたらきとなるのです。

 それでは、この煩悩の代表的な三毒とは一体どういうことでしょうか。まず貪欲とは、自分の都合に歯止めが効かず、欲望にまかせているような状態です。例えば、外食する際に食べ放題や飲み放題のお店でもとを取ろうとするがあまり、お腹が満たされているにも関わらず食べようとする行為をしてしまうことがあります。食べ物をいただく本来のあり方は、自らのいのちを生きながらえさせるために他のいのちを奪って栄養を摂取していく行為であり、それを見失い自分の都合、欲望に歯止めが効かない状態を貪欲というのです。

 次に瞋恚とは、自分の都合がうまくいかず、怒りがわいてくるような状態です。例えば、車の運転中、自動車学校の教習車に出くわすことがあります。落ち着いている時は、共通認識である交通ルールを学ぶために一つ一つ丁寧に実地で研修されているのだと思うのですが、こちらが急いでいる時などは、その丁寧さに腹を立ててしまうことがあります。自分の都合を優先としてうまくいかない邪魔された時に腹を立てるわけです。

 次に愚痴とは、自分の都合でものを見るからありのままを見ることができないような状態です。例えば、先日プロ野球の試合を見に行きました。ある選手が以前お伺いしたお寺さんの御門徒であったので応援していたのですが、ふるわない成績でした。周りの客はその成績に不甲斐なさを感じ、思うがままに批判していました。私は御門徒というところに近さやつながりを感じていたので、次があると応援する気持ちになっていたのですが、ふと思ったのがその情報がなかったら、周りの客と一緒に批判していただろうということでした。そして全ての選手においてもつながりがあり、その周りには応援してくださる人がいるにもかかわらず、私の知っているところにしか目が向いておらない、仏さまのようにフラットに全てのいのちを見ることができていないことでした。自分の都合でしかものを見られない、どれも危ういあり方です。

 私たちは煩悩を抱えています。煩悩具足すなわち煩悩が身について離れないいのちです。このような私たちをそのまま救う、阿弥陀にまかせておくれとおっしゃるのが阿弥陀如来です。以前先輩に教えていただいたのですが、「かたじけない」って感じさせられたことある?と聞かれました。時代劇ぐらいでしか聞かないことばですが、そのことを思わせてもらったと教えていただきました。いのちに関わる病を抱える先輩のお祖父様に御門徒さんが米寿のお祝いの宴席を催してくださいました。病院から一時的に外出の許可をいただいて少しだけ参加することになり、乾杯の際に長く参加できないかもしれないので、先に皆さまにご挨拶をされました。このような内容です。

「今日は皆さまありがとうございます。88年生きることができたのは、さまざまないのちに支えられて、そして皆さまの支えにとるものです。ただただおかげさまです。それと同時に88年生きてきたということは、さまざまに傷つけ、たくさんのいのちを奪ってきたことでした。振り返ると身震いがしてゾッとするのです。かたじけないことです。」

と、か細い声でご挨拶され退場されたそうです。自分の都合で支えられた恩を感じたり、はたまた傷つけたり、ご馳走として頂戴できたいのちもあれば、いただけず無駄にしてしまったいのちもある。そんな自分の都合ばっかりで生きてきた私を必ず救うとはたらいてくださる阿弥陀さまの存在をかたじけないとお祖父様が生涯を通して感じておられるというご挨拶だったと先輩は教えてくださいました。かたじけないは恐縮や感謝や恥ずかしさを表現することばだそうです。煩悩を抱え、自分の都合ばかりで生きてきた私を決して見捨てずお救いくださる阿弥陀さまに私の恥ずかしさ、申し訳なさ、そしてこの私をお救いくださるありがたさを先輩のお祖父様は「かたじけない」ということばに表現してくださいました。

 阿弥陀如来は煩悩を抱える私たちを決して見捨てず救うべくおはたらきくださるお方です。どこまでも自分の都合を中心にしながら危うい生き方をせざる得ない私たちに、必ず救う阿弥陀にまかせておくれとはたらき続けるお方です。その私たちの危うい部分、煩悩というものを必ず滅してくださるはたらきの存在を改めて「清浄歓喜智慧光」ということばに味わうことでした。


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在中央仏教学院講師。


トップへ戻る