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令和7年9月法話「如来所以興出世 唯説弥陀本願海-にょらいしょいこうしゅっせ ゆいせつみだほんがんかい」

「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」

 

                                          大阪教区大鳥南組順教寺 佐竹大智

 

 

この度は正信偈の『如来所以興出世 唯説弥陀本願海』というお言葉を味わっていきたいと思います。

 

 お釈迦さまがこの世にお生まれくださったのは、ただ、阿弥陀さまの本願念仏の教えを説くためだったのですよ、と親鸞さまはお示しくださっています。

 

「本願海」とは阿弥陀さまのお慈悲を海に譬えたものです。果てしなく広く大きく、想像もできないほど深いのが海です。

つまり、阿弥陀さまのお慈悲の広大さと深さを海に譬えて「本願海」とお示しくださっているのです。

 

 先人方が大切に言い伝えてきたところによると、お釈迦さまは生まれてすぐ『天上天下唯我独尊』と仰ったそうです。

 「この世界中で、私の生き方が尊い」ということです。ではどんな生き方が尊いのか。お釈迦さまはその後に、『三界皆苦我当安之』と仰っています。

 これは「この世界は苦しみ、不安に満ちている。だからこそ、私は全ての人々の苦悩を和らげ、安らぎを与えていきたい」という意味になります。お釈迦さまは「全ての人々の苦悩を和らげる生き方こそ、尊い生き方である。

 その素晴らしい生き方、そうなっていくための教えを説くために私は生まれてきた」という宣言をなさったのでした。

 ですから仏教とは、全ての者に苦悩を超え安らぎを与えてくれる教えと言うことができます。
その苦悩の一つに愛別離苦(愛する者と別れていかなければならない苦しみ)があります。

 

そしてその苦悩の超え方にも二通りあります。
一つ目は困難な行に励みその結果、悟りを開くこと。お悟りを開いたならば全ての執着を離れて、あらゆる苦しみからも解放されるといいます。別れも世の道理。全ては諸行無常なのだ、と苦悩を超えることができる。これは自力の仏道といいます。
一方で、皆さんは愛する人が亡くなっても、これも「無常」と割り切れるでしょうか。いつか別れが来るとは知ってはいても、いざそのときを迎えたら、「どうして?」と悲嘆の言葉や感情でいっぱいになり、悲しみのどん底で涙をポロポロこぼすのではないでしょうか。そういう心弱き存在を凡夫といいます。その凡夫に安らぎを与える教えでなければ全ての者を救う教えとは言えません。

 

ここで二つ目の苦悩の超え方です。それが阿弥陀さまの「本願」を支えとする超え方です。「本願」とは、阿弥陀さまのおこされた「心弱き愚かなすべての者を、悟りの世界、お浄土に生まれさせて仏にしたい」という願いです。そして、この願いを実現された阿弥陀さまが、いついかなるときでも南無阿弥陀仏という言葉の仏さまとなって、私と一緒にいてくださるのです。
「あなたを独りにしない私がいます。あなたを必ずお浄土の仏として生まれさせます。お浄土では先立っていかれた方とまた会えるのですよ」と私と共にいてくださるのです。
別れは辛いけれどもその悲しみを縁として、お念仏に出遇い、またお浄土で大切な方に会えると思わせていただく。そしてお念仏を支えとしながら毎日をどうにか生きていく。これが心弱き凡夫が生と死を超えさせていただくお念仏の教えです。こちらは他力の仏道といいます。この本願念仏の教えこそが、どのような者であっても、その苦しみから救うことのできる教えです。だからこそお釈迦さまは本願念仏の教えをお説きになるためにこの世に現れてくださったのでした。

 

私の先輩のお寺のご門徒であるご夫婦がいらっしゃいました。女性の方は熱心に聴聞してくださるのですが、反対に男性の方は仏教に全く興味のないお方。ある時女性が大病にかかり、どんどん衰弱していきます。必死に治療しますが、とうとう亡くなってしまいます。大切なパートナーを亡くした男性。葬儀の時には涙を流しながらこうこぼしたそうです。「妻がいなかったら俺はダメだ。もう1人では生きていけない…」。葬儀が終わった後、初七日、二七日と住職さんがそのお宅にお参りに伺います。そして、その都度、男性に阿弥陀さまのお話をされたそうです。はじめのうち、男性は下を向いてばかりでした。ただ、三七日、四七日と回を重ねていくうちに、段々と顔を上げ真剣に聞いてくださるようになりました。人が変わったようにお寺のご法座にも熱心に来てくださり、あるとき住職さんにこんなことをおっしゃったそうです。「お念仏の教えって有難いね。俺もお浄土に参らせてもらうんだね」数年後、今度は男性が大きな病気にかかり余命宣告を受けます。心配した住職さんが病院へお見舞いに行きました。病室のドアを開けて「おじさん、具合はいかがですか」と訊くと、この男性が「住職、俺、間に合った!」と仰ったそうです。何のことかわからない住職さんに、男性はご自分の思いを話していきます。「妻のお陰で俺、間に合った。妻が先に亡くなった時は、これから1人で生きていくなんて、本当に無理だと思った。でも今になって思うと、妻がその命を通して俺にお念仏の教えを聞くように導いてくれたのかもしれないな。そのお陰でこうしてお寺にお参りさせてもらうご縁をもらった。お念仏の有り難さを教えてもらった。死んでいくんじゃないんだな。お浄土に参らせてもらうんだ。だからな、俺はお浄土に参ったら、妻に「有難う。お前のお陰で俺はこの教えに出遇うことができたよ」って礼を言ってくるんだ!」それから数日後にこの男性はご往生されたそうです。

 

 

 愛する人との別れは辛いものです。とても割り切れません。ただ、その悲しみを見抜いて、「あなたは仏として生まれていくのだよ。お浄土でまた会えるんだよ」と仰ってくださる阿弥陀さまがいてくださるのです。お釈迦さまはそのことを私たちにお伝えくださる為にお生まれくださったのでした。


1987年10月12日生

大阪教区大鳥南組順教寺副住職

本願寺派布教使


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