お知らせ
令和7年11月法話「摂取心光常照護-せっしゅしんこうじょうしょうご-」
「摂取心光常照護」
大阪教区 榎並組 信徳寺 小西善憲
親鸞聖人がお示しくださった正信偈に、「摂取心光常照護(摂取の心光、つねに照護したまふ)」とあります。これは「阿弥陀如来の摂取の光明は、常に照らし護ってくださっている」ということで、「あなたを決して見捨てん」と抱きとってくださる阿弥陀如来のはたらきが常に私に届き、護ってくださっていることを表しています。また護ってくださる中に私たちの抱えている煩悩の闇が破られていく、私たちの抱えているものが問題にならないはたらきが届いていることを護ってくださっていると表現されています。すなわち、私たちを抱きとって捨てないということ、そして私の抱えている煩悩を問題としないということを護ってくださるというところに伺うことができます。
さて、常とはどういうことでしょう。例えば「つね」という漢字には「常」と「恒」があります。どちらも「ずっと」という意味ですが、少し違いがあります。「常」は「途切れることなくずっと」で「恒」は「時々、途切れながらずっと」という意味になるのです。だから、阿弥陀如来のはたらきは「常」となります。途切れることなく私を照らしてくださるのです。この「常」ということをもう少し考えてみます。
「絶対現在」という時間の見方があります。これは過去から未来へと向かう時間軸ではなく、現在しかないんだという見方です。「ただ今」「現在」の連続によって時間というものが形成されていく、過去も未来も全部現在に集約されていくという見方です。時間というものと私の接点は今しかないんだということです。例えば、写真は今の瞬間を切り取ります。その瞬間が連続することによって、アニメーションとかパラパラマンガの原理のように静止画でなく動画のように時間を体感しています。しかし、実際は「今」しかないのです。今、過去の記憶を取り出して想起したり、未来のことを想定してあれこれ悩んだりしているからです。その観点からすると「常」は今ということになります。それは「常」というずっとある時間との接点が今しかないからです。阿弥陀如来の光明は、常にどこにでも誰にでも届いてくださるはたらきですので、今ここ私を照らしてくださるはたらきに護られているというのが「常照護」となるのです。
以前、次のような話を聞かせていただきました。広島に江戸時代の中頃に活躍された慧雲さんという大変ありがたい学僧がいらっしゃいました。福井県を訪れた時のことです。浄土真宗の篤信のご門徒さんと出遇い、ご自宅に泊めていただくことになりました。この慧雲さんは日常会話の全てがありがたい法話のようなお方で、家に向かう道中の会話も一々ご門徒さんはありがたく受けておられました。そのようなことでしたので、家に着いても、ご門徒さんのご家族と浄土真宗の話を延々となされます。午前3時を回ってもよろこびのあまり、皆目を輝かせながら、慧雲さんとの時間を過ごしておられました。さすがに慧雲さんは気を遣われ、明日の家業に差し障りがあってもいけないからそろそろ休みませんかと申しましたが、その家の娘さんも全く眠くなったそぶりも見せません。その姿が気になり、問いかけます。「(慧雲)あなたはいくつになりますか?」「(娘)12歳です。私はしあわせものです。年に一度は御本山の親鸞聖人にご挨拶させていただいています。」「(慧雲)親にまかせて行けば何の心配もない。どれほどの遠方のお浄土でも阿弥陀さまに連れられていく、何の心配もないのう。」「(娘)先日は関東の親鸞聖人の御旧蹟にも親に連れてもらって参らせていただきました。」「(慧雲)なかなかの道中でしたな。しかしあなたが疲れて歩けなくなったとしても決して見捨てない親と一緒、あなたの手を引き、あなたを抱き、おぶっていくから安心じゃな。それと同じく、煩悩を抱えた私たちを見捨てない阿弥陀さまが居てくださる。ありがたいことじゃ。」「(娘)あとは時折、阿弥陀さまの御旧蹟にも参らせていただきます。」と会話があったところで、慧雲さんはふと疑問を覚えました。御本山や関東の御旧蹟は実際に行くことができるが、阿弥陀さまの御旧蹟というものが一体どこにあるのだろうかと歴史的な事実としてご活躍された息遣いを感じることのできる御旧蹟巡りの受け止めの観点から疑問に思われました。すると娘さんはいうのです。「この私の心のあさましさは誰にもいうことができません。鬼とか怪物とかいうことばでも表現できないくらいの心です。この心を抱えた私を目当てに、はたらきづめのお方が阿弥陀さまです。はかりしれない昔から阿弥陀さまが私を何とかしようとしてくださっている。だから自分の心を見るたびに阿弥陀さまの御旧蹟と気づかせていただき、ありがたくお念仏申させていただいています。」と言いました。そのことばを聞き、慧雲さんは、「まことにその通りじゃ。これほど阿弥陀さまを身近に感じることばを聞かせてもらったのは初めてじゃ。」と涙ながらによろこばれたそうです。まさしく今、現在に届く阿弥陀如来のお心を南無阿弥陀仏に聞かせていただいたことでした。