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令和6年6月法話「億劫」

「億劫(おっこう)」

 

大阪教区島中南組専称寺 野田 茜

 

 食卓の中央にティッシュを置いていても、他の人が使った後に私の席から遠くに置かれることがあります。ほんの少しの距離なのにそこまでティッシュを取りに行くのが億劫(おっくう)なので、先日、私の座る食卓の下に取り付けられるティッシュ入れを買いました。

 このように面倒くさくて気の進まないことを「億劫(おっくう)」と言います。これは仏教語の億劫(おっこう)がなまったものです。「億」は、1億円などの数の単位を表す言葉で、「劫(こう)」は仏教が説く中で最も長い時間の単位を表します。「億劫(おっこう)」は本来はとても長い時間を表しましたが、やがてあまりにも長くて耐えられないことや、めんどくさいことを「億劫(おっくう)」というようになりました。

 

 仏典には「劫」がどれほど長い時間なのかを理解するために喩えをもって説明されています。

 四方が40里の大きな城があります。その中をケシ粒(よくあんぱんの上に乗っている粒)で満たし、100年に一度ケシ粒を1粒ずつ取り出し、すべてのケシ粒がなくなっても一劫は終わらない。とあります。この喩えから一劫がなんとなくすごく長い時間であることがご理解いただけたと思います。

 この1劫が具体的にはどれほど長い時間なのかを疑問に思われた方がおられます。その方が四方が40里の城を1辺20kmの立方体の城と仮定し、ケシ粒を直径0.5㎜と仮定して1劫の時間を計算されました。

その方によると1劫は6,400,000,000,000,000,000,000,000年(6𥝱(じょ)4,000垓(がい)年)になるそうです。それに対して宇宙の年齢は、13,700,000,000年(137億年)です。

並べて書いてみると

 

1劫       6,400,000,000,000,000,000,000,000年

宇宙の年齢               13,700,000,000年

 

 こうやって二つを並べてみると、1劫が宇宙の年齢よりも桁違いに長いことがわかります。つまり、私たちの頭では考えられないほど長い時間が1劫です。

 

 浄土真宗で一番大事にしている『仏説無量寿経』というお経には、阿弥陀さまのことが説かれています。

 阿弥陀さまが法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者であった頃のことです。老いることを嫌がり、病を得て苦しみ、死の恐怖におののき、世の中のすべては自分の思い通りにならないと嘆き悲しみながら、生まれ変わり死に変わりを繰り返し苦しみ続ける私達をご覧になられました。法蔵菩薩さまは、自らの力では苦しみから抜け出せない私たちのために、どうすれば苦しみから解放され安らかなる浄土に生まれさせることができるかを5劫考え、兆載永劫(ちょうさいようごう)の修行をされました。そして、ついに私達を浄土に生まれさせることができる阿弥陀仏という仏さまになられました。

 1劫でさえも想像できない程長い時間です。ですが法蔵菩薩さまは1劫の5倍の5劫考え、兆(1012)載(1044)永劫の修行をされたのです。なぜこれほど長い時間考え、修行しなければならなかったのでしょうか。それは、どんな小さないのちをも決して漏らすことなく、生きとし生けるすべての者を浄土に生まれさせるためでした。

 浄土真宗をお開きになられた親鸞さまは、主著である『教行信証』の中で、阿弥陀さまに出遇えたことを、「億劫(おっこう)にも獲(え)がたし」と慶(よろこ)ばれています。この言葉は、親鸞さまが阿弥陀さまにやっと出遇えた感動の言葉です。

 これまで生まれ変わり死に変わりを繰り返しながら苦しみ続ける私に、阿弥陀さまは「あなたを浄土に生まれさせるから、どうか私にまかせておくれ。」とよびかけてくださいました。ですが、そのよびかけを拒み続ける私を阿弥陀さまは決して見捨てず、あきらめることなく、私によびかけ続けてくださいました。そのお陰でこの度ついに阿弥陀さまのよびかけにおまかせし浄土に生まれられることを、親鸞さまは「億劫にも獲がたし」と慶ばれました。

 ただただ私のことを思い、億劫の昔から私によびかけ続けてくださっているのが阿弥陀さまという仏さまです。その億劫(おっこう)にも獲がたい阿弥陀さまのお話を億劫(おっくう)な腰を上げて、お寺でご一緒に聞いてみませんか。


野田茜

1980年10月4日生

大阪教区島中南組専称寺副住職・坊守

本願寺派布教使

布教研究専従職員

中央仏教学院講師

 

 


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