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令和6年9月法話「三昧」

三 昧

兵庫教区神戸東組源光寺 源 裕樹

 

 何かものごとに没頭することや、勝手気ままにすることを○○三昧と言います。たとえば読書三昧やゴルフ三昧、ぜいたく三昧などがそうです。今回はこの三昧(サンマイ)をご紹介させていただきます。

 三昧とは、正式には三昧地(サマヂ)といい、インドの古いことばサマーディを音で訳したことばです。意味から訳すと定(じょう)や正受(しょうじゅ)、等持(とうじ)などといい、禅定(ぜんじょう)や瞑想(めいそう)と言われる方法で心を一つのところに止(とど)め、散り乱れず、安らかで静かな状態、高い精神統一の境地のことをいいます。

 仏教の目的は、わたしがさとりの境地である仏に成ることです。その道(教え)は本来、この三昧をきわめ、智慧を得て到達します。それは、怒りや悲しみなど感情に振り回されず、常に心の状態を平穏に保ち生きていくことでもあります。みなさんも何かことをなす時に精神を集中させて取り組むことがあると思います。私もたまにありますが、うまくいかないですね。なぜならあまり長続きしませんし、条件が揃わなければすぐ心は散り乱れます。外部からの情報にすぐに影響され、あちらこちらに意識が引っ張られるからです。

 わたしが小学校低学年の時に宿題をしていた時の話です。真剣に宿題をしていると、背後から気配を感じました。振り向くと母が私をそっと覗いていました。「どうしたの、お母さん?」と聞くと、母が「ちゃんと勉強してるかなぁと思って、サボって漫画を読んでないかなぁと思って」と言いました。まじめにしていた私は腹が立ち、母に宿題を見せて「ちゃんと宿題やっているよ!」と強い口調でいいました。すると母は「ごめんね、勉強がんばってね」とその場を立ち去りました。その後、わたしはまじめに勉強を続けたかというと、そうではなかったのです。心の中は、「そういえばあの漫画の続きを読みたいな、あの漫画おもしろかったな」など漫画のことで頭がいっぱいになり勉強どころではありませんでした。これは子どものときの話ですが、今もそんなに変わらない気がします。心穏(おだ)やかでいたいと願いますが、現実はそうはいかないですよね。過去、相手の一言に対し怒りにまかせたこともありますし、今でも嫌なこと一言で腹が立ち、好きなものを見ると目移りして、心がざわざわと揺れ動きます。大切な人との別れにただ涙し、悲しみに暮れるしかなかった経験もあります。三昧の境地を得て仏と成ることは尊い道かもしれませんが、わたしには到底及ばず、いくら長生きしようとも間に合わない道(教え)です。時に感情に振り回されて生きるしかないわれわれの努力では決して届くレベルではないのですね。

 ではわたしに合う道(教え)は何かというと、それが浄土真宗です。浄土真宗で仰がせていただく仏さまは、阿弥陀さまという仏さまです。阿弥陀さまは、三昧はおろか、時には情に振り回されるしかないこのわたしのことを他人事とせず、わたしをどうにか本当の真実である仏にしたいと南無阿弥陀仏と届いてくださっている仏さまです。浄土真宗でもっとも大切にする『仏説無量寿経(重誓偈)』の中に

 

「為衆開法蔵(いしゅかいほうぞう) 広施功徳宝(こうせくどくほう)」

 

「衆(しゅう)のために法蔵(ほうぞう)を開(ひら)きて、広(ひろ)く功徳(くどく)の宝(たから)を施(せ)せん。」

 

とあります。

 さとりはおろか、情に振り回され三昧の境地に到底及ばない私のために、阿弥陀さまご自身がおさとりから出てきてくださり、南無阿弥陀仏に仏さまのすべての智慧と慈悲を備え、功徳の宝となり、いまこの命に仏さまの方から届いてくださっています。三昧もままならない私のために南無阿弥陀仏と届いてくださっている仏さま。そのお話を聞かせていただく教えが、わたしに合う道、浄土真宗です。

ご一緒にお寺でお聴聞させていただきましょう。

 

 


源 裕樹

 兵庫教区神戸東組源光寺衆徒

 1980年5月30日生

 本願寺派布教使

 特別法務員

 元布教研究専従職員

 


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