お知らせ
令和8年1月法話「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」
「仏言広大勝解者 是人名分陀利華」
大阪教区大鳥南組順教寺 佐竹大智
新しい年を迎えました。今年もご一緒に仏さまのお話を聞かせていただきましょう。
今月は正信偈の『仏言広大勝解者 是人名分陀利華」というお言葉を味わっていきたいと思います。
南無阿弥陀仏は、「あなたを救える仏となったよ。私は南無阿弥陀仏の声となってどんなときでもあなたと一緒にいるよ」という阿弥陀さまからの私への喚びかけです。「仏言広大勝解者」とは、「全ての者を漏らさず救う南無阿弥陀仏に出遇った人を、お釈迦さまや他の仏さまが讃めてくださっている」という意味です。
「分陀利華」とは、インド語のプンダリーカにあて字をしたもので白い蓮を意味します。インドでは花の王様として白い蓮がもっともすぐれた花とされているそうです。蓮は泥に根を張り育ちますが、咲く花は清らかな純白です。泥に汚れることはありません。同じように、煩悩という泥だらけの存在である私が、清らかな阿弥陀さまの喚びかけをを聞き、お念仏をお称えするようになったのはただ事ではない。あたかも汚泥から白蓮花が咲いているようだ、とお念仏に出遇いお称えしているこの私を、白蓮花というこれ以上ないほどの表現で讃め讃えてくださっているのです。
この度は、「讃めてくださる」という点に注目してみましょう。
私には7歳と3歳の息子がいます。その息子たちが生まれたてのときのことです。妻と私はオムツを替えて、抱っこをして、ミルクをあげ…、と一日中、息子のお世話をしますが、
あるとき、気がついたことがありました。それは、私も妻もやたらと息子をほめているのです。
例えばミルクをあげて息子が飲むと「よく飲めたね」とほめ、オムツを替えるとき用を足していると「よく出たね」とほめる。とにかくやたらと息子をほめている自分に驚きました。
ときには妻が何でもかんでも息子のことをほめている姿を横で見ていて「たまには僕のこともほめてくれても…」と少し息子が羨ましくなったこともありました。
大人になるとほめられる機会は少なくなるように感じます。私が仕事をしても、育児をしても、家事をしても誰もほめてくれません。いちいちほめられるのも気持ち悪いですが、たまには少しくらいほめてもらいたい気もします。それは私だけでなく妻も同じでしょう。皆さんもそんな気持ちになるときはありませんでしょうか。
ところが、私たちは年を重ねるにつれて逆にがっかりされることの方が多くなっていく可能性すらあります。
私の知人の僧侶のおばあちゃんは90歳を超え、病気のせいで麻痺がでて身体が思うように動かなくなり、徐々に認知症にもなっていきました。
つい何年か前までは元気にお寺を切り盛りし、お聴聞も欠かさなかったおばあちゃんが、1日に何度も同じことを訊くようになり、この間までできたことができなくなっていく。お聴聞の場にも来れなくなりました。
老いとはそういうものだ、と頭ではわかっていても、以前は人一倍しっかりしていたおばあちゃんだったので、知人のご家族はおばあちゃんの状態をなかなか受け入れられませんでした。介護をするご家族は内心「こんなこともできなくなって…」と寂しい気持ちと、少々煩わしい思いを抱えておられたのでしょう。ときどき、おばあちゃんに対して厳しく接してしまうことがあったようです。
息子の姿と知人のおばあちゃんの話を聞いて思ったことは、年をとるにつれて周りからがっかりされることは増えるけれど、ほめられることは減っていくのかもしれない、ということでした。(あくまで私の感想です。そうでない方もいらっしゃることと思います)
しかし、お念仏の教えを聞かせて頂く身になったということはお釈迦さまをはじめ、沢山の仏さま方が「よくぞ、阿弥陀さまのお心を聞き、お念仏申す身になってくれた」「あなたはまるで花の王である白蓮花のような人だ」と、最上級の言葉であなたを讃めてくださっているのですよ、と親鸞聖人は仰います。
お念仏に遇わせていただいた私たちも、そして知人おばあちゃんも、ときとして周りの人に落胆され、邪険にされたとしても、「煩悩を超えて、仏となる教えをよくぞ聞いてくれた」というお釈迦さまをはじめ数限りない仏さまのお讃めの声の中に生かさせて頂いているのです。
1987年10月12日生
大阪教区大鳥南組順教寺副住職
本願寺派布教使
