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令和8年11月法話「唯明浄土可通入」

唯明浄土可通入

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 

今月は親鸞聖人が大切にされた七人の高僧方の四人目、道綽禅師のお心を伺っていきたいと思います。道綽禅師(562-645)は中国に生まれました。幼い頃に出家したのですが、時の皇帝である北周の武帝が仏教を廃止し一度還俗され、再び出家されます。北周はその後滅び、隋(581-618)という国が生まれ、この隋も唐(618-907)という国に替わります。この激動の時代を僧侶として生きられたのが道綽禅師です。最初は慧瓚(えさん)という戒律と禅定(心をしずめて穏やかな境地に至る修行)を大切にするお方に師事し、その行を修めておられました。それが「禅師」の由来だそうです。48歳の時に曇鸞大師のお徳を讃えた碑文(どのようなことばを見られたかは現在不明である)を見て、お念仏の教えに帰依されました。その思いを親鸞聖人が表したのが、上記の正信偈のことばになります。「唯明浄土可通入(ただ浄土の通入すべきことを明かす)」と道綽禅師が浄土門すなわちお念仏のみ教えのみ、おさとりに至ることができると明らかにされたという意味です。

道綽禅師は時代背景の中で末法ということを意識されています。これは三時思想というもので時代を正像末の三つに区分していきます。お釈迦さまが入滅されて500年間は正しく教えが伝わり正しく行を修め、お悟りにいたる証を得られます。これが「正法」の時代です。次の1000年間は「像法」の時代でこの「像」とは似たようなという意味です。先の「正法」と似たような教えや行はあるのですが、それではきっちりと証を得ることができないという時代です。次の10000年が「末法」の時代です。お釈迦さまの教えだけがかろうじて残り、行も証果も得られないという時代です。ちょうど道綽禅師が生きたのがこの「末法」に差し掛かった頃です。廃仏や国が変わるという世の乱れなどと重ね合わせ、この「末法」を強く意識されておられました。

この三時思想を考えると思い出すコラムがあります。2016年に東京新聞に寄稿された「最後に残るもの」と題されたお笑い芸人の日本エレキテル連合の中野聡子さんのコラムです。2014年に流行語大賞を「ダメよダメダメ」というコントのセリフで獲得するほど、一時メディアにたくさん出ておられました。しかし、消費されていく感覚が嫌で露出を減らしていくと、仕事がほとんどなくなってしまいました。その当時の心境をコラムで告白されました。内容はこのようなものです。「芸人として活躍することができ、ご飯をたべることができ、多少の贅沢ができるようになりました。するとたくさん人が寄ってきました。自らの尊厳を守るための選択で仕事を制限したら、一気に人が離れていきました。そんな毎日の中、たったひとりぼっちになった私たちに、一切私たちを見放さない人もいます。それは私たちが何者でもなかったころから今も変わらぬ態度で一緒にいてくれるマネージャーで、いっぱい手にした宝物は彼らだけになるかもしれませんが、何よりも価値のあるものだと気づきました。その思いに応えなくてはと思うのです。」という内容のコラムでした。一切見放さず一緒にいてくれるマネージャーの思いを最後に残る実は最初から届いていた宝物と気づき、大切にしていくということを中野さんはおっしゃっています。私はこのことと阿弥陀さまのお心と重ねて味わっています。

過去より生まれ変わり死に変わりを続けながら迷い続けてきた私に、私が救われていく仏法はありました。にもかかわらず「正法」の頃にも「像法」の頃にも出遇わず、迷い続けてきました。そして「末法」すなわちお釈迦さまの教えである経典のみが残っている時に自らの力ではどうすることもできないこの時に、一切私たちを見放さないお心が届いていたということに道綽禅師は曇鸞大師のおことばを見て、気づいていかれたのでしょう。「南無阿弥陀仏」は阿弥陀如来のお心そのものです。「我にまかせよ、必ず救う」とすべてのいのちを浄土に迎えとり、涙なき苦しみなきお悟りの身と仕上げてお救いくださいます。ここに私の力など必要なく、阿弥陀如来のお心にまかせていくだけです。すなわち「唯明浄土可通入」とただ浄土に生まれていく道こそが私の救われる道であった、「南無阿弥陀仏」が最後に残る、そして最初からあった私たちに届いていた宝物なのだと伺わせていただきます。


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在中央仏教学院講師。


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