この尾崎別院は、その昔(時代は不詳)善徳寺という草堂(小さな寺)でした。
善徳寺はその後焼失してしまいますが、慶長3(1598)年、領主・桑山伊賀守が再建を計画し、浄土真宗に信仰の篤かった家臣・石田次郎左衛門に命じて、新たに十一間四面の堂宇を建立して、本願寺第12代宗主准如上人に寄進し尾崎御坊となりました。
それ以来、准如上人を尾崎別院の開基として、本堂右余間にご影を奉懸させていただいております。
准如宗主(第12代)は顕如宗主の第4子(三男)である。母は転法輪三条公頼の娘で法名を如春という。
如春は天文13年 (1544)に生まれ、細川晴元の養女となり本願寺第11第宗主顕如上人と婚約し、弘治3年(1557)に六角義賢の猶子として入嫁し、教如・顕尊・准如宗主らを生んだ。
准如宗主は天正5年(1577)7月19日に誕生した。童名は阿茶という。顕如宗主は准如宗主を越前(福井県)福井御坊の住持とするため、越前の本覚寺・興行寺を付与し、その両寺の各一字をとって本行寺と称させた。天正15年12月6日、顕如宗主から譲状を与えられ、天正19年2月3日、15歳のとき大坂天満の本願寺で得度し、諱を光昭、法名を准如と名乗った。理光院と号する。
文禄元年(1592)に父顕如宗主が病没し、兄教如と本願寺の寺務職を争ったが、文禄2年閏9月に豊臣秀吉の裁定により継職した。
寛永7年(1630)11月30日夜半に没した。享年54歳であった。
【『増補改訂 本願寺史 第二巻』(本願寺出版社発行)より】
軸装 絹本著色 江戸時代 104.4×48.3
〔画面左辺〕 釈准如
〔軸裏貼紙]
御表具御仕替/願主鳴滝村/乾宗助/宇野彦五郎/山原由松/同 同 人 松野芳太郎/松野嘉七/桝野九平/明治廿四年/旧十月 / 右
画讃とは、絵像に描かれている方のご事績を称賛する文言です。
准如上人のご影に記されている画讃は、親鸞聖人がお示しくださった、『入出二門偈頌』の一節です。
かの如来の本願力を観ずるに、凡愚、遇(もうお)うて空しく過ぐるものなし。
一心専念すれば、すみやかに真実功徳の大宝海を満足せしむ。(『註釈版聖典』より)
【現代語訳】
阿弥陀仏の本願のはたらきに遇ったものは、愚かな凡夫であっても、いたずらに迷いの生死を繰り返すことはない。
疑いなく信じて念仏すると、仏は速やかに大いなる功徳の宝の海を満足させてくださるのである。
(『浄土文類聚鈔 入出二門偈頌(現代語版)』本願寺出版社より)
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