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令和6年2月法話「如月忌 ~先人の足跡をたどって~」

如月忌 ~先人の足跡をたどって~

 

大阪教区茅渟組正法寺     豊田悠

 

 

 一段と冷え込む季節となりました。みなさまいかがお過ごしでしょうか。さて、本願寺では、毎年2月7日に仏教婦人会を中心に九條武子(くじょうたけこ)さまのご命日を偲んで「如月忌(きさらぎき)」をお勤めしています。2月を旧暦で如月(きさらぎ)と呼ぶ事に由来します。

 九條武子さまは、1887(明治20)年、本願寺第21代宗主・明如上人の次女として誕生されました。幼い頃から仏さまのお育てのもと歩まれた武子さまは「一人でも多くの方に阿弥陀さまという仏さまと歩む人生のすばらしさをお伝えしたい!」と、18歳で大谷籌子(おおたにかずこ)さまと共に仏教婦人会を設立されました。私生活では、23歳で籌子さまの弟である良到(よしむね)さまと結婚されましたが、結婚したばかりの夫は、海外留学のためと一人ロンドンへ渡り、約10年間帰ってきませんでした。歌人でもあった武子さまは、後に歌集「金鈴(きんれい)」を出版されますが、そこには別居生活を送る夫に対しての寂しさを込めた歌が、たくさん出てきます。

 さらに追い打ちをかけるように結婚2年後、義姉である籌子さまが急逝されます。「夫は海外に行きっぱなしで帰ってこない」「お姉さまも亡くなってしまった。私はこれから一体どうすればいいのか…」そんな不安が胸いっぱいに広がったことでしょう。しかし、悲しみの中にありながらも、籌子さまのお心を引き継がれた武子さまは、実質的な仏教婦人会の運営責任者となり、本部長として日本全国への巡回を始められました。

 そんな中、1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東大震災が勃発しました。昼時で火を使用している家庭も多かったためか、この地震では大規模な火災が発生しました。当時、築地本願寺の境内にお住まいになられていた武子さまも被災され、迫りくる炎の中、何とか一命を取り留められました。その後武子様は、被災者の救護事業や孤児の救済、厚生施設設立など、様々な慈善活動に力を注いでいかれました。しかしながら、長期にわたる奉仕活動の過労が重なり、肺血症を患って「南無阿弥陀仏…」を称えつつ、42歳でその生涯を終えられました。

 この原稿を書くまで、私は武子さまを、どんな時もくじけない気高く強い方だと思っていました。しかしながら、不遇な私生活、義姉の急逝、被災、慈善活動、巡回だらけの年表と、その生涯を知れば知るほど「ああ、この方は強かったわけではなくて、たまらなくさびしかったのかもしれない。不安だったのかもしれない。でもだからこそ、そんな自分の居場所になってくださる阿弥陀さまのお慈悲に遇えたことが嬉しかった。慈善活動は、そのお慈悲に遇えた慶びから行われたのではないだろうか」と思うようになりました。武子さまの心の内が秘められた歌碑が、築地本願寺に残されています。

 

  「おほいなる もののちからに ひかれゆく わがあしあとの おぼつかなしや」

 

 はかりしれない阿弥陀さまのお心に導かれて歩む、私のあしあとの何とおぼつかないことでしょうかと、ご自身の弱さ、はかなさを歌われています。

 武子さまの慈善活動は、時には拒否され、受け入れられない事もありました。そんな時、武子さまは「不請(ふしょう)の友たれ」とおっしゃったそうです。『仏説無量寿経』の中に「もろもろの庶類(しょるい)のために不請の友となる。群生(ぐんじょう)を荷負(かぶ)してこれを重担(じゅうたん)とす」(註釈版聖典7ページ)といった御文があります。あらゆる人々のためにすすんで友となり、その苦しみを背負い引き受け、導いていく阿弥陀さまのお姿です。阿弥陀さまは、すべてのものを最愛の友として、私の悲しみを自分事と捉えてくださっている慈悲の仏さまです。「あなたのつらさ、あなたの悲しさ、ともに背負わせてくれませんか。」と南無阿弥陀仏のお念仏となられて、どんな時も私達ひとりひとりの居場所となってくださっています。「阿弥陀さまが不請の友となり自分の居場所となってくださったように、今度は私が誰かの居場所になっていきたい…」そんな思いで活動されていたのでしょう。武子さまの心を受けて、頑なだった人々の心は次第にほぐれ、最後には大声をあげて泣いたそうです。

 仏さまとともに歩む人生の中に居場所を見出され、そのお慈悲を慶ばれ、またそのお慈悲を自分だけでとどめずに、多くの方と分かち合いたいと活動されたのが、武子さまというお方でありました。仏さまのお慈悲を慶ばれた武子さまのお姿に習い、私も仏さまのお慈悲のお育てのもと、精一杯精進してまいりたいと、気持ちを新たにいたしました。

 合掌

 


豊田 悠

1986年3月30日生まれ。

大阪教区茅渟組正法寺 豊田悠

本願寺派布教使

お西さんを知ろう案内僧侶

現在伝道院指導員

 

 

 

 

 


令和6年1月法話「おたんやの市止まり」

「おたんやの市止まり」

安芸教区佐伯東組光乘寺 中村啓誠

 

 新しい年を迎えました。本年も皆さまとご一緒に、阿弥陀さまのみ教えをお聴聞してまいりたいと思います。

 1月16日は、親鸞聖人のご祥月ご命日です。ご本山の本願寺では、9日から16日まで、「御正忌報恩講」(ごしょうきほうおんこう)という法要が営まれます。当・尾崎別院では、「お引上げ」として毎年11月26日~28日まで「報恩講法要」をおつとめし、ご祥月ご命日である1月16日にも、聖人のご遺徳を偲ぶ法要をおつとめしています。

 私が住んでいる広島県呉市にはかつて、「おたんやの市止(いちど)まり」という、面白い風習がありました。「おたんや」とは、「大逮夜」(おおたいや)がなまった言葉。ご命日の前日のことですが、御正忌報恩講じたいをそう呼ぶ地域もあります。呉市あたりの漁師さんは、御正忌の期間中、漁に出るのを慎んで、お精進をなさいました。その結果、お魚が入ってこないので市場が休みになったことを、「市止まり」と言ったのです。

 仏教の基本は、「殺さない・盗まない・みだらなことをしない・嘘をつかない・お酒を飲まない」などの「戒」(かい。人々を悪から離れさせるために仏さまが定めてくださった、いましめ)をまもること。けれども、「このいましめを守れなければ、仏教徒ではないぞ」と言われたら、仏教は、ほんの一握りの立派な人にしか歩めない、狭い道になってしまいますよね。「仏さまのお心が、そんなに狭いはずがない!」というのが、親鸞聖人の思いでした。〈誰一人、見捨てたくない〉〈戒を守って生きることの出来ないあなたをこそ、放っておけない〉という、阿弥陀さまの底なしのお慈悲の心が、「ただ、あなたを救う」という無条件の救いを告げる名のりの声=なもあみだぶつのお念仏となってくださったんだ ──そのことを明らかにしてくださったのが、聖人でした。

 わたしたちは、生きてゆくために、どうしても他のいのちを奪わなければならないのですね。皆さん、ネズミを殺したことは? 「無い!」とおっしゃる方でも、日々、何らかの「お薬」は服用しているでしょう? 〈わたしたちが健康のためにお薬を飲んでいることは、ネズミのいのちを奪っていることだよ〉とある先生から教わりました。なぜ? どんな薬の開発にも、たくさんのマウスが実験台として用いられるからです。これからは、お薬を飲む前にひとこと、謝った方がいいかもしれませんね、「ネズミさん、ごめんなさい。わたしが生きていくために、あなたのいのちをください」と。

 お魚のいのちを奪うことを日々のなりわいとする漁師さんたち。「不殺生戒」を守れないので、かつては仏教の救いからもれていましたが、親鸞聖人のおかげで、誰一人もらさず救うお念仏のみ教えに出遇えたのです。「わしらも、仏の子じゃ!」漁師さんたちはきっと、嬉しかったでしょうね。そうして、(ここからが凄いことだと思うのですが)その感謝の気持ちを聖人に捧げるため、漁師さんたちは、なんと「お精進」(期間限定ではあるが、不殺生戒をまもること)を始めたのでした。「無条件の救い」に出遇えたからこそ、欲望のおもむくままに生き始めるのではなく、反対に、「なるべく、仏さまを悲しませないように」と、自らの行いを慎む人に、育てられていったのですね。

 きっとこの尾崎の地でも、〈聖人のおかげで、仏の子としての尊い人生を恵まれた!〉と慶ばれた人々が、たくさんおられたのではないでしょうか? そんな人々の熱い思いにささえられて、今日まで大切に守られてきたのが、聖人のご命日の法要なのです。

 


中村啓誠

1969年8月24日生。
安芸教区佐伯東組光乘寺衆徒。
本願寺派布教使。
布教研究専従職員を経て、現在布教使課程専任講師。
広島県呉市在住。

 


令和5年12月法話「終活と迷惑」

「終活と迷惑」

大阪教区榎並組信徳寺 小西善憲

 

 12月を迎えました。私はいつもこの時期になると年賀状の準備をするのですが、最近はいわゆる「終活」の一環として、年賀状じまいということがあるようです。身辺整理の一つとして年賀状のやり取りを終わらせていくわけですが、自身のいのちの終わりを迎える前に、様々な物事を始末していく活動がよく「終活」として取りあげられています。そこには、残された人に「迷惑」をかけたくないから身辺整理を今のうちにという思いがあります。この「迷惑」ということばは元々インドの古いことばであるサンスクリット語の「プラーンティ」ということばに由来があり、心の迷いを表すことばで、そこから道理に明るくなくどうすれば良いのかわからない、途方にくれるということになりました。その状況を他者に与えるということが「迷惑」をかけるということになります。

 では、この「迷惑」ということは元来どういうことなのでしょうか。仏教における生命観は、生まれかわり死にかわりを続けてきたと受け止めます。その連続を回転する輪のように受け止めるので「輪廻(りんね)」と言います。そして輪は同じところをぐるぐる回るので、この状況を迷いと見ていきます。そこから抜け出すのが「解脱(げだつ)」と言い、仏教の目標です。確かに私の中をどれだけ探ってみても、このいのちの前を知ることはないし、今のいのちの寿命もわからないし、いのちを終えた後にどうなるかもわからないわけですから、どこから来たかどこにいるかどこへ行くかわからない迷子のような状況にあるわけです。そのことこそ元来の「迷惑」ということです。そしてそこから抜け出す「解脱」への道に出遇っていくのが仏教のあり方です。

 私たち浄土真宗にあっては、阿弥陀如来がこの「迷惑」の状況から抜け出させてくださると受け止めます。全てのいのちを阿弥陀如来の世界である浄土に生まれさせ、「解脱」した存在である仏に仕上げて救うお方です。そして今の私たちに「南無阿弥陀仏」となって、「あなたを迷わせない阿弥陀がいますから、まかせてください」と名乗り続けてくださっています。そこに気づき、まかせていく中に私のいのちの行き先をたまわるのです。また阿弥陀如来は浄土で全てのいのちを仏に仕上げてくださいますが、この仏方の楽しみは、こちらの世界にいるものを導いていくことだそうです。ということは、この世界に生きる私たちに「あなたもどうぞこの阿弥陀如来のお救いの道に出遇ってくださいね」とおすすめになっておられると、私たちに先立ち浄土で仏となってくださった方々が導いてくださるといただいていくのです。

 以前、カーナビゲーションを使って遠方の友人のお寺に寄せていただいた時のことです。大阪から3時間ほど車を走らせ、無事に目的地周辺に到着しました。カーナビは最後まで案内をしません。地図を注視して危険な状況を作らないために、周辺ということばで周りに注意喚起して危険な状況を防ぐのだそうです。私は周りを見て友人のお寺を案内した看板を見つけたので、その方向に進んでいきました。するとお寺には到着せずにお寺の名前がついた砂防ダムに到着しました。私は迷ってしまいました。不安になり友人に電話をすると状況を理解してくれてすぐに車へと迎えに来てくれました。そして一緒にお寺まで向かい、無事に到着することができました。そこで、迷って不安になった私が安心したのはどの時点でしょうか。お寺に無事に到着した時か、友人が車に迎えに来てくれた時か。もちろん後者です。行く道を知っている者が一緒にいてくれることに安心したのです。

 私たちは、阿弥陀如来から「迷惑」から抜け出せる道をたまわります。そして仏となってくださった、「迷惑」から抜け出せることを知っている方々が、今ここにその道をおすすめになってくださっています。親鸞聖人が大切にされたおことばに「前(さき)に生(うま)れんものは後(のち)を導き、後に生れんひとは前を訪(とぶら)へ(道綽禅師『安楽集』)」というものがあります。前にお浄土に生まれたものは、後に生まれゆく人を導き、後に生まれゆく人は前に生まれたものの御跡をたずねるという意味になります。全てのいのちを救うと立ちあがり、浄土に生まれさせ仏に仕あげて救うという道を完成させた阿弥陀如来、そしてその浄土で仏となり残された私たちを救うべく導いてくださる先立たれた方々が、迷い戸惑う私たちをそこから抜け出させてくださる。このことが浄土真宗における「迷惑」の元来の意味に対するあり方です。だからまずはこのいのちの「迷惑」を解決し、そして世間の「迷惑」について様々に対処していきたく思うことです。

 

 


小西善憲

1980年2月29日生。

大阪教区榎並組信徳寺住職。

本願寺派布教使。

特別法務員。

本願寺得度習礼・教師教修所期間中指導員、布教研究専従職員を経て、現在勤式指導所講師。


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